おくちゃん

2023 31 Jan

児島のお話。

皆様こんにちは!

ジャパンブルージーンズ児島店おくちゃんです。

もう1月がおわりますよ!

まだまだ寒いですがもうすぐ大好きな春が来ると思うとワクワクしますね!

 

今日は児島の歴史について少し触れたいと思います。

児島は「古事記」や「日本書紀」にも「吉備の児島を生み給う」と記載されており、

かつては島でした。          
岡山や倉敷の周辺に流れ込む吉井川、旭川、高梁川の3大河川の  
運ぶ土砂で陸続きになりました。これが現在の児島半島です。  
             
瀬戸内海は外海と比べて海水の塩分濃度が高く、加えて遠浅の海岸が

多かったこともあり、古くから製塩地として栄えてきました。

 

 
天保年間に野﨑武左衛門が入浜式の塩田を開発し、製塩業が盛んになりました。
同時に、江戸時代から備前岡山藩が干拓を奨励し、海を埋め立てて農地を
増やしていきました。          
             
しかし、海を埋め立てただけでは土壌の塩分を抜くのは難しく、いきなり
米を栽培するのは無理があったらしい。それで、塩に強い作物として  
主に木綿やソラマメが植えられました。これが児島で繊維業が栄える
基盤となった背景です。また、この埋立地の肥料として、北海道の  
松前藩から北前船で運ばれてきたニシン粕が投入され、北前船の  
帰り荷には児島名産の塩と綿が歓迎されたそうです。    
             
児島の木綿が全国に知れ渡るきっかけになったのが、由加山大権現の
土産用の真田紐(組紐)だと言われています。それが発展していき、  
明治維新以降は帯地や足袋の産地として大きく伸びていきました。  
明治に入ると、玉島紡績所、下村紡績所、倉敷紡績所が操業し、児島は
紡績の街となりました。        
             
足袋は全国一の生産量を誇りましたが、和装から洋装へと時代が移り、
主力は足袋から作業服や学生服に移っていきました。    
やがて学生服も素材が綿からナイロンやテトロンという合成繊維に変わっていき
中国での生産、少子化の影響もあり、生産量は次第に少なくなっていきました。
1960年代に「マルオ被服(後のビッグジョン)」がジーンズの製造を開始した
ことを皮切りに、ジーンズ製造に進出し現在に至っています。  
             
足袋製造から始まり、学生服製造で培った裁断・縫製技術を応用したわけですが、
これが現在でも産地の特性として連綿と受け継がれており、日本全国は
勿論、海外からも注目される要因となっています。    
             
現在でも、学生服は全国シェアの約70%、ジーンズは国内の総生産量
(約8000万着)の約半分のシェアを誇っています。    

凄い数字ですよね!

こんなにも歴史のある児島で働けて…改めて幸せだなと感じました!

私共JAPAN BLUEグループは勿論、他にも各々こだわりの詰まったショップが沢山のジーンズストリート。穏やかな海、山からのきれいな景色、沢山の素敵が詰まった児島へぜひ足を運んでみて下さいね!

それでは。

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